大晦日の夕方、東京の郊外にあるこの街にも雪が降りはじめた。庭の芝生も茶色に変わり、そのうえに白い雪が舞い降り
る。ちびは雪がめずらしいのか、庭に出てはしゃぎまわっていた。
「元気だねー」
リビングからそれを眺めていた琢磨は、思わず呟いた。
「なにを言う。お前だって小さいときは雪を見てはしゃいでいたんだぞ」
向かいのソファに座ってテレビを見ていた父が言った。ぐぅの音も出ない……
「ちびー、寒いよ。そろそろおうちに入ろう」
「やだー」
子供は風の子とは言うけれど、さすがに夕方になってくるとかなり冷え込む。琢磨は庭に出て、ちびを軽々と持ち上げて家
の中へと戻ることにした。最初は面白がって抵抗していたちびだが、それでもかまわずに部屋へ入る。部屋の中は暖かい。
「おにいちゃん、これ」
と、ちびは手にしていたミニカーを琢磨の前に差し出した。ミニカー……それは、ジョーダンホンダEJ12のミニカーだ
った。ちびのために、と、やっとみつけたものである。ちびはよろこんでそれを受け取り、かたときも離さないのだ。琢磨
のとなりでミニカーで遊び始めたちびを
見ながら、父が言う。
「本当におまえの小さいときなんだな」
「うん」
でも、なんだか奇妙な気分。おなじ人間がおなじ場所にいるなんて。あまり考えてはいなかったけれど、確かに妙な気分な
のだ。でも……いつまで、これが続くのか。琢磨には「終わり」が来ることがわかっていた。何事も、始まりがあれば終わ
りがある。それがいつ、来るのかはわからないけれど。でも、きっと、ちびがいなくなったらさびしいだろうな……
 母が出してくれた紅茶をすすり、ミニカーで遊ぶちびをみつめた。無邪気に笑い、遊ぶちび。このころの自分は、ただ、
車が好きでミニカーやラジコンなどをいじっていたんだろう。それがやがて「このような仕事」につくとは。
 ずっと願っていたことが現実となった今、ふっとそんなことを思う。
「さあて、お夕飯の準備をしちゃいましょう。琢磨、ちびちゃん、お手伝いお願いね」
母の言葉に、ちびも琢磨もおなじ返事をした。

 2002年大晦日から2003年元旦にかけて、穏やかな時間をすごした。
 二年参りに行って、抱負を誓って2003年も無事に過ごせますようにと祈った。1年に区切りをつけ、また新しい年に
向かって歩く。大事なことである。
 ちびの手をひいて、神社の境内を気をつけて歩く姿は、どこか年の離れた弟を連れているようにも見えるし、また、別の
意味でも見える(それがなにかは、読んで下さっている方の判断にお任せするが)。ちびははしゃぎながらも、人の多さに
圧倒されているのか、しっかり、琢磨の手を握って離さない。それがまたかわいく思えた。
 どこから来たのか、そしてどこへ行こうとしているのか……ちびの存在は、ますます、なぞめいたものになっている。だ
が、それを知ってしまうと、ちびが自分の目の前から消えてしまいそうな気もするのだ。確かに、ちびは本来いなければな
らない時空間に帰らなければいけないだろう。でも、不意に消えてしまいそうな、そうではないような……複雑な気持ちが
琢磨の中にはあった。
「おにいちゃん、どうしたの?」
いつのまにか、ちびが自分を覗き込んでいる。どうやら足をとめて考え込んでいたようだ。慌ててにこっと笑顔を見せて、
琢磨は言った。
「なんでもないよ。ごめんね。さ、おうちへ帰ろうか。眠いだろ?」
「うん」
ひょいとちびを軽く抱き上げて、ふたつの影は自宅への道をゆっくり歩いた。

 2003年がやってきた。
 正月三が日は、さすがに家の周囲も静けさに包まれている。時々、車の通る音がしたり、人が歩いている様子は伺うこと
ができた。さして面白くもないテレビ番組を眺めて過ごす。でも、のんびりできるのがうれしい。父の仕事柄、新年の挨拶
にやってくる人も見受けられ、琢磨は日本の正月の雰囲気を味わっていた。お客がくれば、琢磨の話しになる。それはそれ
で仕方のないこと。自分は「F1パイロット」である前にひとりの「息子」でもあるのだから。
 その間、ちびは琢磨が面倒を見たり、リビングで遊んでいたりする。まったく普通の光景だ。


 正月三が日の最後の日、両親はふたり揃って新年のあいさつ回りに行くこととなった。琢磨はちびと一緒に留守番をする
ことになる。見送った後に家の中に戻ると、ちびはミニカーで遊び始めた。
 リビングのテーブルに頬杖をついて、琢磨はちびを見ている。
「ちび」
「なあに?」
「ちびはどこから来たの?」
「?」
きょとんとする。
「ほら、僕と会ったときに……まだ難しいかな?お父さんやお母さんは?」
すると、ちびは少し考えたあとににこっと笑って言った。
「あのね……公園のお砂で遊んでいたの。そしたら、すっごくおっきい音がしたの」
身振り手振りを交えて一生懸命話す。
「音?」
「うん!どっか〜んっていう音がした。びっくりしたよ」
「それで?」
「ん〜……それでね、急に真っ暗になっちゃって、ひとりになっちゃった。お父ちゃんもおかあちゃんもいなかったの」
と、じわっと涙が出てくる。両親のことを思い出したのだろうか?見る見るうちに顔がくしゃくしゃになって、次には大声
で泣き出してしまった。
「うわぁぁぁぁん!!」
「ごめんごめん。思い出させちゃったね」
「おとうちゃん、おかあちゃん……」
今まで思い出さなかったほうが不思議なのだ。まだ小さい、両親の愛情を必要とする時。やはり離れてしまったさみしさと
いうのがあるのだろう。琢磨はそっとちびを抱っこした。
 ああ、そうだ……なんだかこれ、覚えがある。自分の身体の中で記憶している……こうやって、抱っこされたようなあた
たかい思い出がある。泣きじゃくった自分を抱き上げてくれた人。両親ではなかった。はっきりとはわからないけれど、ど
こかで自分に似た大きな男の人に抱っこされたような思い出……そうか、あれは、あのときに僕を抱き上げてくれたのは
僕自身だったんだ。大人になった自分が、過去の自分に出会って……逆に言えば、子供のころの自分が大人になった自分に
出会った……
 それは繰り返される。こうやって繰り返されるんだ。時間の流れの中で。
 時間の流れに逆らって出会った自分と自分。今もまた、こうやって繰り返されている時間。

 だが、その時は突然やってきた。

 出版社から頼まれていたエッセイを書き上げてから、それを読み直す。校正をかけてからメールで送信。そろそろ自分も
新しいシーズンを迎えるためにイギリスへ戻ることになっていた。
 ちびのことが気になって仕方がないのは相変わらず。そんな気持ちを知ってか知らずか、ちびはいつものように琢磨のそ
ばから離れようとはしなかった。まるで、琢磨がもうすぐここからいなくなる(一時的だけれど)ことがわかっているかの
ようだ。少し暖かい陽がさしこんでくるリビングで、琢磨はちびの様子をみながら仕事を進めている。
「…?」
と、ちびは不意に大きな窓の向こうを見た。手入れされた庭。なにかあるのだろうか、真剣な表情で。直後に立ち上がり、
窓を開けようとするではないか。琢磨はキーを打っていた手を休めて
立ち上がった。
「どうした?なにかあったのか?」
窓を開ける。一瞬、冷たい風が室内へ流れ込んできた。その瞬間、琢磨の目の前の空間がゆらりと揺れた。間違いではない。
確かに揺れたのだ。驚いた彼がちびの手をひこうとしたとき、ちびの表情がぱっと変わった。琢磨の手をすり抜けて、ちび
は外へ飛び出す。
「ちび!!」
揺れ動く空間の向こうに、ふたつの男女の影が浮かび上がる。顔ははっきりしないが、ちびに向かって手を差し伸べている
ように見えた。
『琢磨、たくまなのね!?ああ、やっと見つけた!』
聞き覚えのある声がした。はっきりと聞こえたのだ。自分を呼ぶ声が。だが、それは自分を呼んでいるのではなく、ちびの
ことを呼んでいるのだとわかるまでそれほど時間はかからなかった。
 ちび……幼少のころの琢磨が、揺れ動く空間の中へと飛び込んでいく。
『見つけたか?よかった』
『よかったわ、あなた。琢磨が無事で』
ちびは大喜びで女性の影に飛びついた。
「おとーさん!!おかーさん!!」
そう。その男女とは若かりしころの自分の両親だったのだ。ちびを抱き上げた若かりしころの父が、目の前にいた青年琢磨
に気がついた。
『……本当にありがとうございます。おかげさまで無事にこの子を見つけることができました。迷子になってしまったよう
です…私たちがちょっと目を離したすきに……』
「え、あ……はい」
毒気を抜かれたように、琢磨は間抜けな返事をする。あまりのことに言葉が出てこないだけなのだ。
『もしかして……琢磨?…まさか』
若かりしころの母は、青年琢磨を見て優しい笑みを浮かべた。だが、琢磨は返事をしなかった。ただ、自分も笑顔を返すだ
け。
「おにーちゃん、ばいばい」
無邪気に手を振るちびに、琢磨はなんともいえないものを感じた。もう、二度と会うことはないだろう、幼少のころの自分
が自分に手を振っている。と、揺れ続ける空間が再び、閉じようとしているのがわかった。3人の影がゆっくりと消えるよ
うに見えたから。
「待って!」
琢磨は咄嗟にテーブルの上にあったものを手にして、それを手渡そうと歪んだ空間の前へと飛び出した。もうすぐ閉じてし
まう!
「ちび、これ!」
歪んだ空間の中へと手を差し込んだ。ちびは琢磨が差し出したものをしっかり受け取る。それは黄色の小さなミニカー。
 ジョーダンEJ12……
 揺れ動いていた空間が再び元へ戻る。手を戻そうとした瞬間、琢磨は弾かれたように地面へ転がった。
「うわぁっ!!」
ビュンッッ!!!!
 すさまじい音が琢磨を包み込む。それはほんの一瞬のような、長い時間がかかっていたような、不思議な時間。だが、気
がついたときには目の前には手入れされた庭木があるだけ。冷たい地面の上に転がったまま、琢磨はしばらく動けなかった。
「琢磨?なにをやっているの?」
「そんなところにいたら風邪をひくぞ」
不意に聞こえてきた声に、顔を上げる。リビングに両親が帰ってきていた。
「あ、おかえり……」
「どうしたの?ボケた顔をしちゃって」
「……ちびが…」
「え?」
「ちびが帰っちゃった……」
「なに?」
合点がいかないという表情で、両親が顔を見合わせる。琢磨はやっとの思いで立ち上がり、ちびが消えてしまった場所を見
つめた。
 ……もう、会えない……

「じゃあ、あれは幻なんかじゃなかったんだな」
温かい紅茶を飲んで落ち着いた琢磨の話しを聞いていた父が言った。
 父の話によれば、琢磨が小さいころに、家族で出かけた先で行方がわからなくなってしまったことがあったのだそうだ。
あちらこちらを探し回り、やっと見つけたのが、とある家の庭だった。ひとりの青年が琢磨の前にいたという。それが、こ
こにいる琢磨自身だということに、彼本人は気がついた。
「あのときにやっと見つけたら、おまえ、ミニカーを持っていたよ。そういえば」
「ミニカー?あ……!!」
そうだ。さっき、自分も消える寸前のちびにEJ12のミニカーをあげたっけ。ということは、捨てていなければ、あのミ
ニカーは今でもどこかにあるはずだ。
「…でも、そんなことってあるのかな?」
呟くように言った言葉を、母は聞き逃さなかった。
「世の中にはね、琢磨、時には信じられないようなことも起きるのよ」
「それを奇跡っていうのかもしれない……なーんて、気障かな」
そう言って父が笑う。
 両親の笑顔が、さっき見た、若かりしころの両親に重なる……

 自室に戻った琢磨は、自分の机の上にあったミニカーなどを眺めた。
 ちびが楽しそうに眺めていたことを思い返す。それは、自分も同じことをやっていたのだと思うと、なんとなくおかしく
なってくすっと笑ってみたりする。
「あ、そうだ」
ちびにプレゼントしたEJ12のミニカー。あれはどうなったんだろう。そう思って、琢磨は部屋の中を探してみた。あち
こち探していて、やっと見つけたのが、少々埃をかぶった箱。しばらく触れていないことがはっきりわかるくらいに埃をか
ぶっていた。そっとふたを開けてみる。
「……やっぱりあった」
少し掠れたボディ。でも、レモンイエローのマシン。あちこち傷んでいるけれど、確かにEJ12だ。遠い記憶の中に埋も
れてしまったけれど、かすかに覚えている。いや、ちびが来たことで思い出したのだ。時代を遡り、何年も一緒に過ごして、
またこうして自分の手元に戻ってきた。
 大事に大事に、ミニカーを白い紙で包んで、琢磨はそれをバッグの中へしまい込んだ。

 それから数ヵ月後。

 琢磨は、ラッキーストライクB.A.Rホンダのテストパイロットとして忙しい日を過ごしている。
 自分が目指してきたことを叶えた今、次に目指すのはさらに腕を磨いて、再び、レギュラーパイロットとしてサーキット
を走ること……そして、いつか、あのいちばん高いところへ自分が上がること。少しくらいは廻り道をしても構わない。急
がば廻れ、という言葉もあるくらいだから。
 周回を終えて戻り、クルーたちと話しをして……その合間に、ふっと空を見上げる。
「……」
不意にちびのことを思い出した。もう、ちびに会うことはないだろうな。小さいころの自分に会うことはないだろうな……
だって『大きくなったあの子がここにいる』のだから。自分自身なんだから。
 時間の神様のいたずら。何度もあっていいことではない。

 でも、また同じことが繰り返されているんだろう。少し前の自分自身に。
「タク!」
マネージャーの声でわれに返る。おっと、今は仕事中だったんだ。返事をして、琢磨はピットの奥へと歩いていった。

 時間の神様がほんの少し、いたずらした、奇跡の物語…


                     ☆おわり☆