夕方。歩いて某所へと向かう。すっかり陽も暮れた街。時々、冷たい風が自分を撫でていく。
(ちび、怒るかなー……)
ちびがうとうとしていることを確認してから、そっと家を出てきた。どうしても連れて行くことができないからだ。今日
は、飲み会なのである。まさかそういう席には連れて行くことはできまいって……いくら、それが仲間たちとのものでも。
 琢磨は、ふっと空を見上げた。街の空、星はほとんど見えない。吐く息が白くなる。イギリスよりも気温は高いが、風
が吹いているので体感温度はさらに寒く感じていた。
 来年、自分は再び、ラッキーストライクBARホンダと契約することになった。来年はテストパイロットということに
なっている。残念だが、これもひとつの道だ。あせっても仕方がない。じっくり、腰をすえていくことも大事なのだから。
勉強の意味を考えれば、これもいいことだと思う。
(とは言うものの、ちょっと残念だよな)
ま、仕方がないと思うけれど。前向きに考えていこう。
 10月の鈴鹿以来、取材の数もかなりあったし、マスコミ媒体への露出度はかなりのものとなった。だが、こうしてふ
つうに歩いていると、琢磨だということはわかりづらいらしく、それほど声をかけられるということがない。まぁ、陽が
暮れたことも関係しているんだろうけれど。
(う〜ん………オフのときはなるべく仕事のことは考えたくないんだけれどなー……これも性分なのかな)
などと、いろいろな考えをめぐらしつつ、見慣れた道を歩き、いつもの仲間たちが集うところへと向かった。

「ちびちゃん、琢磨おにいちゃんは今日は遅くなるわよ」
窓の外を見ているちびに、母が声をかける。むすっとした表情で、ちびは振り向いた。散々泣いたのか、顔が真っ赤になっ
ていた。
「ね、今日はねんねしましょう。明日、遊んでもらおう、ね?」
「やだ」
「ちゃんとねんねしないと、オバケに食べられちゃうぞ?」
「オバケなんか怖くないもん!!」
が、母は優しくちびを抱き上げる。カーテンを閉めて、外を見ることができないようにした。ちびはまだぐずっていたが、
背中を優しくさすられると、すぅっと眠りにおちていく。
 何年ぶりかしらね、子守唄を歌うなんて……
 優しい声が、静かに部屋に流れる……

「そういえば、あの子はどうしているんだ?」
高沢の声に、琢磨は顔を上げた。
 いつもの仲間たちとにぎやかにすごしている時間。簡単な忘年会も兼ねていた。琢磨の周囲には、人が集まり、話しも尽
きない。少し落ち着いたところを見計らい、高沢はとなりに座って話しを始めた。
「あ、今はうちにいますよ?」
「なに?預かっているのか?!」
素っ頓狂な声をあげて、高沢は驚いた。
「ええ、ちょっと……」
なんとなく言葉を濁してしまう。目の前にあったグラスの中を口に運んで、それとなく話しをそらす。が、高沢はしばらく
琢磨の顔を見つめてから、ふっと小さく息を吐いて話しを続けた。
「あの子、おまえ自身だろう?」
「え?」
ドキッ。動きが一瞬、止まってしまう。高沢はそれに躊躇することなく続けた。
「どうもね、気になっていたんだ。あの時は誰かに似ているって思って、誰に似ているかすぐには思いつかなかった……で
も、な。あの顔はおまえだ」
「………」
「SFなことを信じているわけじゃないけれど、ま、そんなこともあってもいいかもしれないけれど……日本語になってい
ないな……ま、とにかくだ、あの子はおまえだろ?」
「ええ……」
小さく返事をする。
「どういうわけかわからないんですけれどね、今はすっかり溶け込んでいますよ。年齢の離れた弟みたいなものですから」
「ふ〜ん?」
「まあ……いつまで一緒にいられるかはわからないですけれどね、こういうのもアリかなって思っているんですよ…実際、
楽しいですから」
にこっと笑う。いつもの琢磨の笑顔がそこにあった。
 高沢はその笑顔を、どこか違うと感じている。どこか、寂しげな……それが何かはうまく言えないが。
「できる限り、一緒にいてあげたい。いつかは、あの子も本当のところへ帰っていくでしょうけれどね」
「そうだな……」
ひとりっ子ということも関係しているんだろう。兄弟がいるということに強い憧れを抱いていた時もある。そのことを、高
田はよく知っていた。
「ふたりとも、なにを話し込んでいるんですかー?」
「お、すまんすまん」
仲間たちの声にわれに返る。

 冷たい空気に瞬く星。
 数こそ少ないけれど。

 その夜も遅くなった。琢磨はやはり、いちばん最後にそこを出ることとなる。
 クルマを使えばいいのだが、なんとなく歩きたい気分だ。仲間や高沢に礼をいい、来年もよろしくというあいさつを交わ
し、ゆっくりと歩き出す。
 ちびに初めて会ったときも、こんな感じの夜だった。
(なんで感傷的になるんだろうな……)
こんな気持ち、なかなかあるものじゃない。
 ちびが来てから、琢磨は自分の生活パターンが、ふだんのものとは違うことに気づいていた。ひとりじゃない。いつもな
にかしら、ちびのことを考えている自分がいる。たとえば、食事をしていても、取材を受けていてもどこかでちびのことを
考えている。これほどまでに気になるとは、あの時は思ってもいなかった。不思議なものだ……
 火照った身体に、少し冷たい空気。かぜをひかないようにしなければ。
 人通りもほどんどなくなった道を、琢磨はゆっくりと家に向かう。
「ただいま……」
小さく声を出す。家の中も寒々としていたが、リビングには電気がついている。ジャケットをとりながら、リビングへ入る
と、母がアルバムを広げたままうとうとしていた。
「母さん、母さんってば。風邪ひいちゃうよ」
「ん……あら、おかえり」
「ただいま。ほら、こんな寒いところでって……あれ?」
テーブルの上に広げられたアルバム。
「どうしたの?アルバムなんかひろげて」
「ちょっとね……ちびちゃんを見ていて、きゅうに見たくなったのよ」
「ちびは?」
「あなたの部屋で眠っているわよ」
そう言われて、琢磨は自分の部屋へ様子を見に行く。すやすやと眠っているちびがいた。そっと、音をたてないように再び
部屋のドアを閉じて、リビングに戻る。
「すごかったのよ、あなたがいないことに気づいて大騒ぎしちゃって」
「あははは……」
「琢磨のこと、よほど好きなのね」
ソファにすわり、琢磨もアルバムを見る。クルマと一緒に写っている自分が多い。クルマ好きの血は父からのものだ。そし
て、初めて行った鈴鹿サーキットの写真もある。
「ちびも、僕と同じなんだろうね。F1を見に行くんだろうな、そのうちに」
「きっとね」
そう、きっと。そして、自分が感じたものを、ちびも感じるだろう。
 あの、強烈な印象を残してくれた瞬間を。

 もし、人生をやり直せるとしたら。
 自分はまだ、こんなことを思うには早いかもしれない。
 だけど、やりなおせるとしても、きっと、おなじ道を選ぶだろうな。
 すやすやと眠るちびの顔を見て、琢磨はいろいろなことを思った。
 なぜ、ちびは僕の前に現れたんだろう……とか。
「ふあ……」
眠くなってきた。無理はしないで眠った方がいい。よくわかっている。
 ふわふわとした感覚が身体を支配する。

 あと数日で年も明ける、暮れのある日のひとコマ。

 琢磨は知らない。
 その時が少しずつ、近づいていることを。


  (次回へ続きます……)