Vol.6
〜Outside of a Standard≪ta・ku・ma≫〜
朝6時、起床。
準備を終えてから、学生時代から愛用しているレース用サイクルに乗って走りこむ。気が済むまで走ることもあるが、
たいていは決められたコースを走り通して、自宅に戻る。
午前7時、朝食をとる。
栄養学までしっかりとアタマに入っているので、食事のバランスというものがしっかりしている。
それから、パソコンを立ち上げる。メールチェックをして、日本にある関連サイトを見て廻り、それからまたメールに
向かって返事を書く。ちょっとした息抜きで、ファンのサイトというものにも眼を通すこともしばしば。
休日とはいえ、いつもやることはやっておかないと気が済まない。でも、今日はたまった洗濯物をやらなければ……そ
れくらいは自分でやらないと、マザーにも申し訳が立たない。通っている学校での、最後の宿題もあるし……ああ、これ
だったら学生時代と変わらないじゃないか。
英会話をマスターしなければ、これからの「仕事」に差し支えも出てくる。それでも、今はだいぶ理解できるようになっ
たが。最初は苦労した。なにを言われているのか、まったくわからなかった。日本での英語教育が、ちっとも役に立たな
いということを痛感した瞬間でもある。彼は、自らを英語圏へと叩き込むことにより、わずかな間にそれらを習得するこ
とに成功する。
カーリン・モータースポーツ……所属している英国F3チーム……との話し合いも順調に行き、もうすぐ、彼は夢であっ
たF1の世界へとステップアップすることになっていた。
先週、マカオで行われたF3世界選手権で、琢磨はぶっちぎりの速さで優勝。そして、日本人初の英国F3ウイナーと
なっていた。本当は今年最後に行われる最終戦・香港でのレースがあったのだが、琢磨が新たに所属することが決まった
ジョーダン・グランプリから、リスクを背負うことはやめてほしいとの要望があり(万が一のことがないとも限らないた
め)最終戦には出場しないことが決まっている。本当は出たかったのだが。
体調は……相変わらずである。
F1への参戦が決まってから忙しい日々をすごしていた。日本とイギリスを往復する日々。
その忙しい合間を縫って、横浜市へと向かった。
少し前の「爆破」騒ぎでなくなってしまった(琢磨の「せい」である)研究所に代わり、神谷は新たにふつうの民家
を手に入れて、少し手をくわえていた。やはり、ふつうの住宅にしか見えないが、中と外では大違いなのは前の建物と同
じである。
「やっぱり行くのか?」
苦虫を噛み潰したような表情で、神谷は言った。メンテナンスが終わり、まだ全身にマーキングを残したままの顔で
≪ta・ku・ma≫は頷いた。彼の決意が固いことを知ると、少々気障に肩をすくめてみせる。それは「もう何も言わ
ないよ」ということであった。
「僕の連絡先はわかりますよね?携帯番号とかには変わりはないですよ。それから、えーっと……あ、パスの手配、お
願いしておきます。準備ができたら郵送しますね」
「わかった」
ぶるんと首を振ると≪ta・ku・ma≫は「琢磨」になった。マーキングが綺麗に消えている。
「それと……神谷さん、僕のことを見張っている連中っていうのはわかりましたか?」
「ああ、なんとなくな」
と、火の点いていないタバコを咥え、神谷はパソコンのフロッピーディスクを1枚、取り出した。ラベルには何も書かれ
ていない。琢磨が不思議そうに首を傾けると、まあ、待っていなさいという顔で目の前にあったパソコンの中へスロット
させる。
「これなんだけれど……」
グゥゥゥンという鈍い音がして、画面に出てきたのは新聞のようなものだった。
「まあ、あくまでも私の推測にしか過ぎないんだが、どうも大がかりな組織のようなんだ」
「組織?」
「どれくらい大きいのかはわからん。今は不気味に静かだが……油断はならん。もしかしたら、琢磨くんのそばにいるの
かもしれない。私のそばにいるのかもしれない。こればかりはこれからも注意していかないといけないな」
「自分のすぐそばに……」
パソコン操作を続けながら、ふたりはしばらく話しを続けた。
周囲の人々をむやみやたらと疑うことはできな
い。それはやってはいけないことでもある。琢磨がこれから飛び込む世界は、一筋縄ではいかないところなのだ。疑心暗
鬼になりすぎてはいけない。人を信用しなければやっていけない世界でもある。
マシンチャイルドとしてではなく、ひとりの人間として飛び込むのだ。
「あんまり遊ぶんじゃないぞ」
「はい?」
「その能力を使うんじゃないって言っているんだよ」
と、琢磨はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。まるで少年のような無邪気な笑顔にも見えるし、色気を帯びた青年の笑顔に
も見える。やれやれと神谷はため息をつく。こういう笑顔を見せるというのは、なにか考えているとしか思えない。まあ、
大きな騒ぎにならなければいいのだが……
神谷のところを出て、今度は青山にある本田技研工業へ向かった。
その間、ずっと感じているものがある。
(やっぱりつけられているな……)
どこからみられているのかわからない。だが、それは確かに琢磨を見つめていた。気にしないようなふりをして、本田技研
工業の建物の中へと入っていく。エレベーターに乗るふりをして、彼は物陰に隠れた。見事な瞬間芸。深呼吸をしてから、
そっと、自分が来た道を覗き込む。
社員らしき姿と受付嬢が見える。特に怪しい人は見当たらない。
「……?」
ガラスの向こうに、ひとり、男が見えた。じっと建物を見上げている。通りすがりの人間ではないようだ。が、男はなにか
慌てている様子にも見えた。懐から携帯電話を取り出して、どこかへかけている。その間にも、中の様子を伺っているよう
だ。
(あいつだな)
しばらく様子を見る。が、時間がせまっていたことに気づいて、琢磨は今度こそエレベータに乗って、目的の場所へと向かっ
ていった。
本田技研の中での用事を済ませて、再び外へと出る。
これで今日の仕事は終わり。スポーツクラブで汗を流してから帰ろうかなと思ってクルマのところへ来たときだった。
「タクマ・サトウ?」
呼び止められる。顔を上げると、そこにいたのは長身・細身の若い男。取材の人間……ではない。直感的にわかった。危険
だということも……
咄嗟に身体が反応する。と、相手が懐から拳銃のようなものを取り出した。
「少しドライブしないか?」
低く冷たい口調。アイスブルーの瞳。視線も人を射るような鋭い視線。只者ではない。それは、男を見ればすぐにわかるこ
とだ。
「今すぐに行かなければならない?」
「そうだ」
この場はいうことを聞いたほうがよさそうだ。琢磨は頷いた。
男は、自分の車に乗るように言う。運転席には男が乗る。琢磨は黙って助手席に乗った。
本田技研の建物を後にする。ブラックのポンティアック・ファイアーバードは青山の街を走り出す。
(これは神谷さんに連絡をしたほうがいいな)
体内の回路をオープンにする。周囲には悟られない。
「あなたは?」
「ああ、これは失礼。私の名前はジェイだ」
正面を見たまま、流暢な日本語で男は自分の名前を名乗った。
「まさか誘拐と思っていないか?タクマ?大丈夫だよ、何もしない。私の言うことを聞いてくれればね」
なにが大丈夫なもんか。この男からは危険な匂いがしてくるだけ。でも、少し奇妙な感じもする。確かに危険なのだが、
どこかが違うのだ。
「質問ついでなんですが、僕のことはご存知のようですね」
「ああ、もちろん。きみが英国で活躍するF3パイロットだということも、来年、ジョーダングランプリからF1デビュー
するということもね。まあ、ファンだと思っていただければ幸いだ」
「そう…ですか。それは光栄です」
緊張感がみなぎる車内。琢磨は相手の動きに一分の隙もないことに気づいていた。
気をつけないといけない……隙を見せたらやられる。
その後は、特にたわいもない話しを続けた。だが、琢磨の緊張感は解かれてはいない。ジェイはそのことを踏まえたう
えで話をしてくる。琢磨はそれに返事をするだけ。最初のような質問はしなかった。
どれだけ走ったか、また青山に戻ってきた。
「これからも応援しているよ、タクマ。がんばってくれ」
アイスブルーの瞳は、不敵に琢磨を見る。ファイアーバードは再び、街の中へと消えていった。
クルマが見えなくなったのを確認して自分の車に戻る。運転席にすわり、自分の身を沈めると大きくため息をついた。
緊張した……
「ジェイ……か」
謎めいた男。覚えておいたほうがよさそうだな。
『≪ta・ku・ma≫』
BEATの意識が同調する。
「ん?どうした?」
『ドクターカミヤから連絡が来ている。大丈夫か、と』
「ああ、うん。今から連絡しておくよ」
そういうと、懐から携帯電話を取り出した。かなり使い込まれたもので、あちこちが痛んでいる。だが、大事な連絡ツー
ルでもあった。
神谷に連絡を取ると、さすがに心配になったのか声が裏返っていた。
「たぶん……自分がこれから飛び込む世界のこと
もよく知っている人だと思うんです…でも、つかみどころがない……読めないんですよ、相手のことが」
「なるほどな。そいつは難しい問題だ」
「今回はなんとかしましたけれど……」
「それとなく、こちらも調べておくよ。琢磨くん、気をつけなさい」
「はい」
それだけ言うと、神谷は電話を切った。
動き出したな……自分の周囲が、どんどんきな臭くなっていく気がする。でも、これも自分に課せられた運命なのかも
しれない。
琢磨はそう思うと、少し俯いて眼を閉じた。
『さあ、帰ろう、≪ta・ku・ma≫。遅くなると心配するよ』
BEATの意識が琢磨に訴えかける。わかっているよと苦笑いして、彼はキーを廻した。
翌日。
「いよいよなんだなぁ」
「はい」
琢磨がいつも、日本へ帰国すると立ち寄る「たかだフレンド」。平日の昼間のせいか、店には店長である高田のほかには
誰もいなかった。のんびりした昼下がり。琢磨が来たので、それまでやっていた自転車の組立作業を止めて、ふたりはコー
ヒーを飲みながら話しをはじめた。
「あれ?これ、誰の物ですか?」
「ああ、小沢くんの。ほら、このあいだもメールで話したじゃん。彼の新しい自転車が来たからさ。これ、慣らしてから
例のレースに出るんだってさ」
「へえ」
今でもトレーニングで、学生時代から愛用しているレース用バイクを使用している琢磨は興味津々といった表情でその自
転車を眺めている。
「それにしてもすごいな、本当に。夢を実現しちゃうんだから」
「いや……自分でも、こんなにうまくいっていいのかどうかって悩んじゃいますよ」
「いいんじゃないの?それは琢磨が努力した結果だし」
高田の言葉に、琢磨は笑顔を見せる。雑誌などで見せる笑顔とはまた違った、屈託のない笑顔だ。
「まあ、これに限らず、これからも必要なことだからな。自分は応援することはできても…」
「それだけで充分ですって」
「だけどなー、本当にF1だもんなぁ。こっちが驚いたよ。チームの連中の反応も面白かったぞー」
そう言って高田は笑った。
とりとめもない話し。琢磨がほっとできる瞬間でもあった。
「琢磨」
「はい?」
「無茶するなよ……って言ってもおまえは無茶するタイプだからな。でも、限界を超えることはしてはいけないよ」
優しい表情で高田は言う。実の息子のように思っている彼だからこその表情だろう。親のような、友人のような……とて
も穏やかで優しい微笑みだ。琢磨はまっすぐに相手をみつめて頷いた。その表情に、高田の安心した表情が浮かぶ。
そう、琢磨だったら大丈夫。それは、自分がずっと見てきたからわかっている。
(応援することしか出来ないからな、自分たちには)
高田はそう思うと、店の中を見回している琢磨を優しい眼で見つめていた。
(次回に続く。ブラウザの「戻る」で戻ってください)
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