Vol.1
〜Outside of a Standard≪ta・ku・ma≫〜
暗闇の中に、かすかに音がする。まるで呼吸をしているようなリズムで。
うっすらと青白い光が水槽を照らし出す。暗闇に包まれた部屋の中心には、大きな円形の水槽があり、中にはひとりの人間
が浮かんでいた。
眼を閉じて、眠っているようなやさしい表情。満々と湛えられた羊水の中に浮かんでいる。無数の電極がむき出しになった
「彼」の身体に貼られ、そこから伸びたコードが外へと繋がっている。ボディにはインジケーター(マーキング)が記されて
いる。それは一見、記号のようであり、英文のようにも見えた。全身にそれらは記されている。
こぽ……コポコポ…
水槽の中には酸素が送られているようだ。
「すべて完了したな」
「はい」
「こいつが、私の最後の「作品」になったか……」
ゆっくりと入ってきたのは、初老の外国人男性とひとりの日本人青年。
男性は車椅子に座り、青年がそれを押しているようだ。
「例のご夫妻には、話しはしてあります」
「わかった。手続きはすべて済ませてあるんだ。もう私の出番はないよ」
「ドクター!」
「あとは、神谷くん、きみに任せる。メンテナンスと………彼を頼む」
「やめてください!」
水槽の中の「彼」が、ゆっくりと眼をあける。うっすらと開いた眼は、男たちを見つめている。だが、眼には表情すらない。
ただ、じっと目の前の光景を見ているだけだ。
「ドクター、縁起でもないことを言わないでください!私は、まだまだドクターには追いつけません、まだ教えてもらってい
ないことがたくさんあるんです!」
「……神谷くん、やめたまえ。彼が気づいている」
「え?」
水槽を見上げる。確かに「彼」が眼を開けている。
「意識はないがな……無意識のうちにわれわれの会話を聞いているんだ」
ごくりと息を飲む。
「さあ、彼を覚醒させる準備を始めよう。私がいる。神谷くん、きみが全部やるんだ」
「………はい」
覚悟を決めたという顔で、神谷と呼ばれた青年はうなずいた。
「彼」は、ゆっくりと眼を閉じた。また眠ってしまったようだ。
それまで暗かった室内が明るくなった。神谷がてきぱきと動き出す。車椅子の男性は、その姿を頼もしげに見ているようだ。
水槽の周囲に張り巡らされたおびただしい数の機械も動き出した。神谷は慎重に仕事を進めていく。
羊水が全部抜かれて、中の空気と外の空気が混ざり合う。「彼」をゆっくりと抱き上げて、そばに用意していた特殊なベッ
ドに横にさせてから、電極とコードの一部を取り除いた。
見た目は人間とまったく変わらない「彼」。小柄である。
「さてと、ここまでは大丈夫」
ほっと安堵のため息をつく。身体中に書き込まれたインジケータは、まだ消されていない。「彼」がふつうの人間とは違うこ
とを示すもの……それが、身体に書き込まれたものだ。
「あとは、これとこれを………それからこれも……」
コードは傍らにある物々しい機械に繋がっている。青白い光がコードの間を行ったり来たりしていることが確認できた。
「……よし………」
神谷の声に、ドクターは頷いた。
「あとは、このスイッチを入れるだけだ。神谷くん」
「はい」
すべての準備は整った。あとは、彼の目覚めを促すだけだ。
色白の肌、くっきりとした二重瞼、はっきりとした顔立ち。意志の強そうな口元。
見た目は、人間と寸分変わらない「彼」。
「私の心血を注いで造ったんだ……失敗はない……そうだろう………」
ベッドに横たわった「彼」=少年を見つめ、ドクターは言った。
「いい子だ……おまえは……」
となりにいた神谷は、ドクターの横顔を見て恐怖に震えた。その横顔に、狂人の愛を見たような気がしたからだ。いったい、
彼はなんのために彼を造ったのだろう。神谷には、そのことが今更ながら疑問に思えた。
聞いたことがない……自分は。
「いいか……彼を大事にしてくれ………この子は私の息子だ。私のすべてを注いで造ったのだから」
車椅子の男は、そういって静かに微笑んだ。
「たくまーっ!どこにいるの?!」
東京の郊外、町田市のとある公園に女性の声が響いた。姿の見えなくなった自分の息子を探しているようだ。当の本人は、公園
の片隅に停車していた一台の乗用車に眼を奪われ、じっとそれを見つめていた。その眼は、きらきらと輝いていて、クルマを見
つめている。
「琢磨!」
と、母が少年を見つけた。
「あ、おかーさん」
にこっと笑って振り向く。ほっと安堵の息をついて、母は言った。
「ダメじゃないの、ひとりで…」
「今ね、お話ししていたんだ」
「お話し?誰と?」
「ん」
と、少年は車を指した。母は、息子の言葉に、少々戸惑いを覚える。が、すぐにいつもの表情に戻り、ひょいと息子を抱き上げる。
「さ、おうちへ帰ろうね」
「ホントだよ。ボク、お話ししていたんだ」
「そうなの……なにをお話ししていたのかな?教えてくれる?」
「うん!あのね……」
無邪気に笑う少年。母もつられて笑うが、どこか不安な表情があったことも確かだった。
ただのクルマ好きだったらいいのだが……この子は、ちょっとふつうの子とは違う……それを承知しているからこそ、母は心
配になる。だが、ふつうの子として育てていく決心をしたからには、それをおいそれと変える訳にはいかない。たとえ、いつか、
この子が本当の自分に目覚めたとしても。
「おかーさん?どうしたの?」
「え?ああ、なんにもないわよ。琢磨」
「ふーん?」
「今日のお夕飯、なににしようか?」
「んーっとね……」
親子の会話。それは、どこにでもある光景だ。
少年は、すくすくと育った。まったくふつうの人間として。
ただ、少々違っているのは、クルマやコンピュータなどと「話せる」ということ。子供的カンではなくて、少年にとってはふ
つうのことなのだ。それがあたりまえだと思っているようである。
だが、実際は違う。
少年は、その身体を「完全にコントロールされた」人間だ。世界を見ても、彼だけ。彼だけに与えられた「特権」のようなも
の。それが将来、彼をとある道へ進ませるきっかけにもなるのだが、それはもう少し先の話し……
少年の名前は、佐藤琢磨。
近い将来、日本中から注目される人間になることは、まだこのときは微塵も思っていない。
「マシンチャイルド……」
神谷は、ドクターの残した膨大な書類を広げていた。
ドクターが亡くなって数年。それでも、まだ全部の書類などが片付いたわけではない。その量に、唖然としつつも、神谷はす
べてに眼を通すつもりでいた。
「確かに、彼は最後のものだけれど……まさか、こんなにすごいことになっていただなんて」
パソコンを操作していた手を止めて、ふっと息をついた。自分が関わっていたのはほんの少しだけだということも痛いほど理解
できる。ドクターは、最後の作品である≪ta・ku・ma≫に、どれだけの執念を抱いていたのか。
そして、なんのために≪ta・ku・ma≫を造ったのか。
「恐怖」と「真実」は、これから始まる……?
(続く。ブラウザの「戻る」で戻ってください)
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